武徳こそ、武術太極拳とカンフーの神髄

刀を構えて、カンフーのポーズをとる青い服の若者。

武徳という言葉を聞いたことがありますか?

カンフーではもっとも重要なことばですが、日本ではあまり聞かないですよね。

カンフーの「神髄」と聞くと、「一撃必殺の秘伝の技」と思われる方もあるかもしれませんが、この記事では長拳技能検定試験で出てくる抱拳礼にあわせて、武徳の重要性と、それにまつわる静かなお話をします。

カンフーの武徳とは

武徳というのは、武術に関わる人が、世の中に貢献するために守ろうと決めている約束事や、それをいっしょうけんめい守ろうとする姿のことをいいます。

礼儀正しくしたり、けんかをしないように気を付けたり、こういうのは全部武徳です。

それだけでなくて、練習をいい加減にさぼったりしないで、心から学び、苦しい練習にも耐えて、じょうずになろうとすることも武徳です。
なぜなら、そうやってじぶんが優秀になればなるほど、世の中の役にも立つからです。

きちんとした服を着て、姿勢を正しくして、言葉もへんなものを使わないで、いつも優しい美しい言葉を使うようにするのも武徳です。

人を信じて、まっすぐ受け入れるのも武徳です。

どうして、そんなものまで武徳になるのでしょう?

むかし、カンフーがまだスポーツではなかった時代、カンフーをやっているひとは、誤解されやすかったのです。
誤解されると、危ない目にあいました。自分と、まわりの人を安全にするために、武術をやる人は、いつもきちっとふるまって、周りの人のことも気にしてあげ、ウソをついたりせず、正しくあろうと気を付けました。

だから、身なりをちゃんとして、姿勢を良くし、まっすぐに人を見てまっすぐな言葉をつかうこと、誰かを阻害したり軽視しないで、いつも和を保とうとすること、人から信頼されようとふるまうことは、武術をやる人の基本なのです。

みんなから信頼され、みんなの役にもっと立とうとする、それがカンフーの武徳です。

武徳の作法、抱拳礼

抱拳礼は武徳のひとつです。武徳を表現する作法の一つです。

もともといろいろな作法がありましたが、今はルールでひとつに統一されましたから、カンフーをやるときはこれができれば大丈夫です。

この抱拳礼ですが、これは単に「こんにちは」というあいさつではありません

抱拳礼はそのポーズで、まず「自分が武術をやる人間である」ということの表示になります。

ですから、ほかの似たやり方の礼法と混同しないようにしましょう。

握るのは右手だとか、左手の親指は曲げるとか、相手の目を見るだとか、武術で決められたやり方をかならず守ります。

むかしは、たがいにどのような筋の人間であるかということが、生きるためにとても重要でした。
あいてを見誤っては、やっぱり危険な事がありました。

逆に、謙虚にちゃんとあいさつできて、ちゃんと相手に認めてもらえれば、安全を確保できましたし、助けてもらえることも多かったのです。

武術をやる人が抱拳礼をするのは、たとえば町中で武芸を披露する時に、「自分は武徳の精神にのっとって、いっしょうけんめいやりますから、つたないところがあっても、寛大な心で見て下さい」とか、「観にきてくれてありがとう。武術家として心から感謝します」などのメッセージがありました。


腕比べをするときは、「これは殺し合いでもケンカでもない。武徳を追求する武術家どうし、正々堂々と手合わせいたしましょう」というような気持ちを、抱拳礼に込めました。

ここに「以武会友」の精神もあったのです。

武徳の心を、今も抱拳礼にこめる

先生に抱拳礼をするときは、「自分は武徳の考えに従っていっしょうけんめい練習します。武徳を実践できる立派な武術家になるようがんばります。(だから、どうぞよろしくおねがいします)」とか、「貴重なおしえをありがとうございました。武術家として、精進します」のような気持ちを込めます。

これがちゃんとできない学生は、武徳を大切にしない者ということで、先生は教えることが許されません。

先生が学生に礼を返すときは、「その心を受け入れましたよ。だから武徳の精神に沿って、ヒナを育てるようにあなたを慈しんで、良い人材となるまでかならず教えましょう」という心で抱拳礼を返すのです。

上下関係はありますが、武徳のもとにはみんな同じです。
武徳が照らす道の下では、さきほどの「以武会友」は、先生と学生でも成り立つのです。

先生と学生が友とも言えるなら、大会で戦うライバルもまた、武徳を追求し合う友です。

套路の試合会場で、所属の異なる選手同士が抱拳礼をかわすことは、現在ほぼ見られませんが、本来それはおかしなことです。

戦うからこそ、心からたがいに抱拳礼が現れていいはずです。
むしろ、そこが抱拳礼の出番とも言えます。

もしどっちが成績がいいか、所属団体がどこか、先生は誰かなどで、相手の存在や演技を無視したり、態度に差をつけたりする心が、知らず知らず当たり前になっているとしたら、それはとても利己的ではずかしく、抱拳礼の表す理想にそぐわないものです。

四人の子どもが、カンフーのポーズで、拳を上に突き上げている。

このように抱拳礼には、博愛や刻苦といった明確なメッセージが毎回こめられるべきもので、単にかっこよく「こんにちは」「さようなら」と示し合っているのではありません。

今目の前の人に、自分の伝えたいメッセージがちゃんと届いているか、抱拳礼をしながら、その目をまっすぐ見て確認します。

こどもたちは知らないかもしれませんが、これは、日本なら映画などにある「仁義を切る」のと、あいさつの重みが似ています。

相手を見たまま「お控えなすって」とたがいに繰り返し、自分がどういう来歴かを示しあいます。そしてさいごに手をあげる順番まで大事にします。

仁義で順番、作法を守ることは、かならず伝えたい意思があるからです。
その意思を持ったあいさつには重みがあるもので、抱拳礼もおなじです。

抱拳礼・含意

抱拳礼の近代的な含意は、武徳を重視し、武林で団結し、文武両道となるように努める、というものです。こちらは資料も多いですし、JWTFの公式テキストなどでもご確認ください。

中国、紫禁城の写真

さてここで、とくに子どもたちにわかっておいてもらいたいのは文武両道というのは、学校の成績も良くて、カンフーの試合でメダルもとれる、ということではないということです。

カンフーで文と武に求めることは、高い点数がとれるかどうかではなくて、それらを使って武徳を表現できるかということなのです

知識をもって、学校の成績が良いのは素晴らしいのですが、じぶんだけのことです。

カンフーで一番になるのも、すごいことですが、やっぱり自分だけのことです。

学問でまなんだ知識で、世の中のために自分に何かできないかを考えてみたり、カンフーできたえた力で、だれかを助けてあげられないか考えたりして、しかもそれを自分一人でも実際に行動に移すことが、ほんとうの文武両道なのです。

点数がつかなくても、ご褒美がなくても、だれも見ていなくても、いつもだれかのために生きられないか、こころの中にあること、その実現のために自分をきたえること、それが武術家が抱拳礼をするときに誓うことです。

だから例えばですが、大きな大会で地方に行って、帰りにバス停や駅で棍や剣をしょって、メダルをとった話を嬉しそうにしている選手がいたとします。ところがいざバスに乗ると、スマホばっかりいじって、地元のお年寄りが大荷物で乗って来て座る席がなくても、自分はすわったまま気づきもしないようなら、これはちょっと頭をひねる状況です。

眼法も、体力も、メダルをとれるほどにあるのでしょうが、どうもその選手はそれらを活かせていないようです。それだけがんばれるアスリートならば、けっして心が曇っているという事はないはずですが、武徳をとらえきれていないために、このような失態を招いているのです。

毎回武徳のことを心に思いながらきちっと抱拳礼をしていれば、その心は習慣になり、それが体全部にしみわたります。


すると目はいつも町中で困っている人がいないか探すでしょうし、いれば自然に助けてあげられたり、学校でお友達にまごころをもって接することができたりするのです

助けられた人からは笑顔が、まごころを感じ取ったともだちからは、真心がかえってきます。

そうすると、もっときちんとしようと思って、どんどん世の中の役にたつ人になろうと思い始めるでしょう。

これが「武徳修養」というものです。

抱拳礼は、正しい形、ただしいやり方、それと、毎回正しい心をこめること、これがとても大切です。

武徳・指導側は

指導者は、こどもたちに抱拳礼を教えますが、なかなか武徳教育までしきれていないのが実際ではないでしょうか。
筆者も日本では、武徳について誰かが語るのを聞いたことも、自分が語る機会を得たこともありませんでした。

先ほどの、バスでの選手の失態ですが、これは彼ら彼女らだけの失態ではありません。
武術界全体の失態です

そもそも今の日本には、「武徳」という言葉について難解な訳はあっても、実践的な行動としてその詳細を解説する資料がほとんどありません。
この理由は、中国の武徳が社会主義に直結しているためと思われます。

社会主義における具体的な行動について書かれた中国の文献を直訳するだけでは、当然日本でそのまま使えません。日本で活かすためには、専門の人たちの、研究と改造を経なければならないでしょう。

手の上に浮かぶ日本と中国の国旗

また昔と違い、学生は家から通う余暇活動のひとつとしてカンフーをえらぶので、指導者は学生の日常面を配慮する必要がなくなりました。学生も、先生というのは技術練習だけに関係する人間だと思っていますし、練習時間にだけ接するのでは、指導はたしかに技術面だけになりがちです。

こうして、現在の武術は、武徳修養の良質な手本のないまま、指導料をとって技術を教える、あまたある習い事の中のひとつにおさまってしまい、もはや武徳教育がなくても、スポーツとして安泰となってしまっています。

ですが、武道大国であるこの日本で、この先武術太極拳が柔道、空手、剣道などなど、他の武道とならび発展していくためには、指導側は今よりもう一歩踏み込んで、中国から学ぶものは学び、日本らしく変えるものは変え、足りない資料は補って、武徳について真剣にかんがえるひつようがありそうです。

さいごに

雪の重みに耐えて咲く赤い梅の花。

武術の真諦は徳を重んじるにある

艱難辛苦を乗り越えて、社会に貢献できる人材を武術界からおくりだすという思いは、政治主義の違いに関わらず、日本も中国も共通のものであり、ともに目指すことのできる大きな理想です。

この理想をかかげ、その理想のもとに「武林是一家」と言わしめるもの、それが抱拳礼に表される武徳であり、

これこそ、すべての武術家が追求するカンフーの神髄なのです。

参考文献

〇(社)日本武術太極拳連盟『普及用長拳』 p9,1998

〇 門恵豊 主編『武徳修養』北京体育大学出版社,1995

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武徳こそ、武術太極拳とカンフーの神髄” に対して2件のコメントがあります。

  1. 中谷美砂 より:

    初めてサイトを拝見しました
    素晴らしい内容なので私のブログで紹介させてください

  2. 石川 より:

    中谷先生こんにちは。ご連絡ありがとうございます。サイト運営に不慣れで、コメントというものに気づきませんでした。大変失礼いたしました。ブログでご紹介いただけましたら光栄です。

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