武術太極拳の難度が抱えるリスク
近年、武術太極拳では、ジャンプの回転や超低姿勢・片足立ちなどの「難度動作」が大きく注目されるようになりました。
難度動作は美しく、観客を魅了します。
しかし、これを若さでこなせるのは短い期間だけで、膝・腰・股関節を傷めたり、怪我を伴って練習をしていることはあまり語られていません。
もともと健康だった青少年が難度を追求した結果、その先の長い人生において、体のどこかに「痛み」を持ちながら生きていくとしたら、それは武術太極拳にとって本当の革新なのでしょうか。
この記事では、長拳指導者の立場から、難度動作について改めて考えてみます。
難度

難度動作とは
難度動作とは、ジャンプ中の回転、低姿勢でのバランス技、これらの連続など、通常より高度な技術を必要とする動作のことです。
比較的取り組みやすいものから、競技会では事前に技を登録して提出するもの、さらには国際ルールでは申請と審査を経て承認されなければならない、非常に高度な難度まで幅があります。
審判は成功か失敗かを基準に採点し、成功すればあらかじめ決められた点数が加算される仕組みになっています。
現在ではイベントの招待演武などでも、難度の一部を見ることができます。
難度の導入

難度動作が大きく取り上げられるようになった背景には、中国が自国の「武術」を本格的な国際スポーツとして発展させ、将来的な五輪採用も視野に入れてルールを大きく改定したことがあります。
従来の採点方式では、審判員5名が動作の質・ミス・演技レベルをそれぞれの主観で総合評価して採点していました。
しかしこの方法では採点の一貫性を保つことが難しく、国際競技としては「公平性」や「わかりやすさ」に欠ける面がありました。
そこで、競技を「世界で通用するスポーツ」にするために、
- 採点の公平さ
- 技の明確な基準
- 観客にも伝わる華やかさ
が重視されるようになりました。
その流れの中で、採点方式は A(動作の質とその他のミス)・B(演技レベル)・C(難度) に明確に区分され、難度動作が正式に得点区分として扱われるようになりました。
回転数やバランスなどは成功・失敗が判定しやすく、得点差を客観的に示すことができます。
さらに、難度の成功は観客の目を引き、競技に独特の緊張感をもたらします。
こうして難度套路は、国際的に共通化しやすい採点基準として重要な位置を占めるようになったのです。
選手の側から見る難度
難度動作が導入された背景には、国際化を見据えた大きな方針転換があったことがわかりました。しかし、実際にその流れを形にするのは、日々練習を積む選手と、彼らを導く指導者です。
そこで次に、現場で競技を支える立場では、難度動作がどのように受け止められているかを考えてみたいと思います。
憧れと輝き

空中で回転し、低姿勢で静止する。
難度は、選手にとって憧れそのものでしょう。
昔は「ずば抜けた選手が、流れの中で瞬間的に垣間見せる特別な技」というのが、いわゆる難度の概念でした。
非常に難しい動きではありましたが、その動きをできたかどうかが勝利の決定打ではなく、あくまで別格の選手が圧巻の演技を進行する中で、強烈に光を放つ瞬間だったとも言えます。
今では難度枠ができあがり、エントリーした選手が挑戦するようになりました。
勝利への「課題」のような一面があり、アピールや成功のために流れを止めたりすることは珍しくありません。
難度はかつてのような「度肝を抜かれる」感覚を失った代わりに、成功するかどうか息をのんで見るという、ダイナミックでスリリングな楽しみをもたらしました。
若い選手にとって難度という課題をこなすことは、英雄への扉を開けることです。
成功した瞬間は勝利がぐっと近づき、観客の拍手はひときわ大きく、努力が報われる場面でもあります。
もちろん、相応の賞も与えられるでしょう。
難度は一軍、難度無しは二軍…?

若い人は希望にあふれ、素直に憧れを持ち、積極的に難度動作に挑戦します。
これは競技を押し上げる原動力として、とても有効です。
一方で、難度ができるかどうかで序列が生まれ、難度は“一軍”、難度無しは“二軍”という風潮が否めないのも現状です。
競技会場でどのコートが花形なのか、それは一目瞭然です。
自分たちが従来の套路をやっている向こうで、成功するかしないかという、スリルある大技に挑戦している一団がいて、沈黙と拍手が会場の空気をさらっているのです。
難度套路には大規模大会から小さな演武会に至るまで、今この会場において主役は誰なのか?”という空気があり、更に”演出”までも行われるのが当然になっています。
これを目の当たりにして、若い世代が何も感じないはずはありません。
エントリーはあくまで自由ですが、今の若い選手たちが、無言の空気の中で「最高峰を目指すには難度の山を登るしかない」と感じてしまう環境に置かれていることは確かです。
指導側から見る難度

難度を教えるのは簡単ではない
難度は高度で危険が伴うため、
・指導者自身の技術
・体操的な訓練法
・安全な設備(クッション性のある床など)
・十分な練習時間
が必要です。
しかし現実には、硬い床だけの練習場、限られた時間、指導者は一人で多人数を見る状況が多く、「安全の確保」が非常に難しいのです。
武術太極拳の指導者は元々多くありません。
一人の指導者が県を跨いで子供たちの指導に出かけることも稀ではないほどです。
このような状況で指導者は、仮にそれを望む学生がいたとしても、なかなか難度までは見られないのが普通です。
指導者の価値観の差
そもそも、競技が一層体操化していくことに疑問を持つ指導者もいます。
複数の流派が集まった武術だからこそ、考え方が分かれるのは当然です。
経験の豊富な指導者は、”難度こそ第一線”という風潮を前に、自らの指導方針が揺らぐこともないでしょうが、まだ若い訓練生は異なる考えを抱くかもしれません。
若い人は、どうしても今が世界の中心になるでしょう。
「従来の套路には、難度套路にない本来の良さがあるのだ。それと難度套路を一概に比べることはできない」と言っても、若い人の耳にあまり意味のない事です。
彼らの目の前には華々しく新しい世界が広がっていて、古い指導者の価値観がどこまで若い生徒を導けるかは、一つの難しい問題です。
長拳指導の側から見る難度

長拳はもともと跳躍や深い姿勢を多用し、一套路の運動強度も高いため、ある程度の負担は避けられません。
しかし日本の練習環境では訓練量も控えめで、通常の長拳動作そのものが深刻な障害を生むことは比較的少ないと言えます。
問題は、難度が加わることで負担の質が変わることです。
膝・腰・股関節などに明らかに長期的な負荷がかかりますし、突然大きな力がかかったり、転倒の危険も増します。一気呵成の流れを止め、急激な停止や爆発的な再起動をすることは、心肺への負担にもなります。
若い選手は体力があるぶん、多少無理をしてもこなせてしまいます。しかしその中で、見えない“後遺症の種”を抱えてしまうことがあるのです。
高い跳躍・低い動作・速く激しい動作をこなす長拳を教えるには、学生に常に食事や睡眠など、生活に気をつけ、健康であるようにも指導します。
技術と健康は両輪で、学生の功夫が増すのと健やかであることは、指導者にとって不可分の願いです。
しかも長拳指導者は学生を幼いころから担当します。
そのように長年育ててきた学生が、最終的に難度も習得し、群を抜いて輝けば確かに喜びをもたらすでしょう。
しかし一方で、若いのに難度の為に腰を抑えたり膝をさすったりする姿を見るのは、きっとこれまで大切にしてきた宝玉を、いきなり地に落として傷つけてしまったような痛みを感じるはずです。
太極拳の側から見る難度

太極拳は、本来「ゆっくり」「全身の協調」「呼吸」「養生」など、心身を整えながら動く体系です。
多くの愛好家は中高年で、彼らにとっては競技であっても“健康”、”心身の調和”あるいは”武術的理論”などの価値が中心にあります。
しかし青少年の競技会では、太極拳であっても、その優秀な成績の裏には厳格な基本功や過酷な訓練が積まれているのが当たり前で、問題はそこに更に難度が加わっているのです。
難度を含む太極拳は、体幹や柔軟性が高い若い選手がこなせば大変見映えがしますが、いくら正しいとされるフォームでやったとしても、やはり
- 膝への重い負荷
- 股関節の無理な角度
- 片足での長時間バランス
など、身体への負担が決して小さくありません。
打ったり蹴ったりが当たり前の武術において、太極拳は、先達が「養生」を大切にし生み育てた非常に稀有なものです。
ここに、故障の種をひそめた難度が入りこみ、これを”革新”と呼びスポットライトを当てる現実。
拍手を送りながらも、“価値観のねじれ”や”乖離”を感じている愛好家や指導者は、少なくないのではないでしょうか。
若い選手が「未来の健康」を失わないために:武術の意義を見つめ直す

難度は美しく、競技を大きく発展させました。これは確かに素晴らしい革新です。
そして、長い訓練を積んだ末に、最終的には難なくこなせてしまう、抜群の素質を持つ選手がいることも事実です。
能力があり行ける者に対しては、行けるところまで全力で応援すべきでしょう。
しかし、難度枠を設定し、その追求が“最高峰への道”という暗黙の流れを作った結果、水面下で、小さくても一生ひきずるような故障や痛みを抱える若者を、無数に生んでしまってはいないか。
これは、指導者も選手自身も、時に立ち止まって真剣に考えるべき問題です。
若さは、限界が見えないまま、そこを“超えてしまう”ことがあります。
その限界点は、最初は小さなゆがみです。わずかの違和感かもしれません。
あるいは、今だけ痛めて痛いんだと思うだけかもしれません。
それを見逃すのは生涯の過ちです。
くり返される訓練で、やがてそれは慢性化します。
老いては、悪化するでしょう。

スポーツの変遷には、政治や国際事情が無関係ではありません。
心のどこかでわかっていることを、忘れたふりをしたまま傍観する、派手に舞う演技にただただ拍手喝采する、そんな姿勢にもっと疑問を持つべきです。
若い訓練生は、武術太極拳の宝です。
日本において武術太極拳は、「心身を育て、長く続けられるもの」です。
“健康”という価値を、競技においても大切にし、だからこそ「武術」だけでよかった呼称に、あえて「太極拳」を付けたはずです。
健康を失ってまで学生にさせることは、武術の世界にありはしません。
彼らは痛めた体で、いつか世の中に貢献する力を充分に発揮できるのでしょうか?
彼ら自身には、長く長く健康に生きて、次の世代を導いてもらわなければなりません。
難度に挑んだ者が老いたとき、どのような身体を抱えているのか、
私たちはその未来をまだ誰も知らない。
筆者はそれが、怖いのです。
執筆者 石川 まな (カンフーチーム 点睛会 代表)


