カンフーの独学はいけません
「カンフーを学びたいけど、近くに教室がない。
中国拳法のサークルはあるみたいだけど、内容がどんなものかよくわからない。
入ってそこが自分に合っているかもわからない。
最近は動画もいっぱいあるし、いっそ独学でもできるかな?」
カンフーは種類がたくさんある一方で、教えてくれるところはとても少ない。
だから中国武術に興味をもった時、こんなふうに考える人は少なくありません。
だけどカンフーに独学はいけません。
それが八極、八卦、太極、長拳、あるいは散打などであってもです。
かんたんな動きならコピーしたり、技術のひとつかふたつを、身につけることはできるかもしれません。
だけどやっぱりそれはどこか違うものになります。
カンフーに憧れているけれど、今一歩ふみ出せないでいるみなさんに、カンフーの独学がなぜ良くないのか、技術、伝統などの角度からお話しましょう。
この記事を読めば、きっと新しい仲間をさがしに、そしてどこかにいるはずの師を探しに、心の憧れをふくらませ、とびだしていきたくなるはずです。
カンフーを構成する大切な要素は、技術以外にもあります
まず、カンフーがどんなものか確認しましょう。
それは誰かを倒したり、あるいは自分を守ったりする、そんな剣と盾のようなものでしょうか。
いいえ、カンフーはそういうものではありません。
功夫というものは、自分の中に時間をかけて育て上げた、自分以外の存在を偏りなく大切にできる力のことです。
これは武徳と言って、カンフーの技と切り離せない要素です。
「精神論はいらないから、打ったり蹴ったりする技が学べるかだけ知りたいんだ」と思ったなら、その時点でカンフーはあなたから離れています。
武徳なしに、カンフーは存在できません。
この点を、心に諭してくれるのが師というものであり、そして時には仲間との交流です。
ですから、カンフーの独学はいけません。
最初ほど正確でなければ、のちに回り道をします
白い画用紙に絵を描くのは、自由自在にできます。
どんな線も、どんな色も心のままに描けます。
ではその一度描いたものを消して、描きなおそうとすると、どうでしょう。
どうしても紙に跡が残りませんか?
色はまざってにごり、線はどれがどれだかはっきりしない。
カンフーも同じです。
最初に体に覚えたものが、ずっと「くせ」となって居座ります。
あとから変えるのは大変な労力がいります。
これから学びたいのなら、最初の一歩は師にゆだねるべきです。先生は、最短の距離で、正しいルートを導いてくれます。
練習には鏡が必要、そして先生は話す鏡
自分の感覚だけでは、姿勢一つ合っているかわかりづらい。
そんな時、鏡に映してみれば、自分ができているかいないか一目瞭然になります。
ですがもっといいものがあります。
それは先生です。
先生は、瞬時に生徒のどこがちがうか言葉で示してくれます。
後ろ側も指摘してくれます。
跳び蹴りでくるくる回っている、空中姿勢にも、もっとこうだと言ってくれます。
先生は、自分も若いころ同じように練習していたので、生徒を見ながら同時進行で、頭と心の中で動きをなぞることができます。
動きだけではありません。
練習がつらいことも、柔軟が痛いことも、大会でうれしかったり悔しかったりすることも、みんな知っています。
だから、生徒の動きが少しでも違えば、不協和音を感じるようにすぐ反応し、どうすればいいか教えてくれるのです。
先生というのは、カンフーを学びたい人にとって、時間を越えた魔法の鏡です。
カンフーは砂をかむような訓練の繰り返し、独りではつらい
武術のうち、散打は習得までの時間がやや短めです。
でも套路をもつタイプのカンフーは、きちっと先生について、毎日のように2~3年やっても、まだそんなに上手にできないのが普通です。そのようにできているのです。
来る日も来る日も、先生の教えからはずれないように、昨日も今日もほとんど同じことを繰り返し、朝に晩に練習して、5年くらい経って、ようやくそれなりに上手になります。
もし、一週間に二回ほどの練習だと、まあまあになるだけで7年は必要でしょう。
一週間に一回なら、たいていは前にやったことの復習だけで終わってしまいます。
頭でなぞるだけで、鍛錬まで進めないまま時間だけが過ぎ去ります。
これは、基本功を徹底的に教えてくれる先生のもとで、吸収力のある子ども世代が学んだ場合です。
もし独学なら、迷いながら、ときに一度描いたものを消してまた描きなおし、わからないところに苦心し…。
それは、考えただけでも気が遠くなるような道のりです。
その間ずっと、本や動画を眺めているだけではなく、ハードに筋骨をきたえなければならないのです。
うまくなるには、常に限界のところへ自分を追い込み、そこで昨日よりほんの1mm過去を突破することを繰り返します。
功夫は、そうやって重ねていくのです。
耐えられるでしょうか。
やり方が合っているかもわからず、ハードな訓練を何十年も続けるなんて。
もしも、独学の練習が別にきつくないと感じるなら、1mmのつらさに言葉を失う経験がないのなら、系統だった正しい訓練法をできていないのかもしれません。
しかも独学では、きっと人目も気になったりします。
足を床に踏み鳴らしたり、時には刀や棒を振り回したり、集中して練習できる場所はそうはないでしょう。
教室なら、場所があり、最短距離を教えてくれる先生がいます。
つらいときは、相談もできます。
そして、たいていは仲間もいます。
つらい練習も、仲間と笑いあう瞬間があるだけで乗り越えられてしまう、そんなものです。
探し求めることも、カンフーの魅力です
カンフー映画、それから日本の漫画などでは、よく師匠と弟子がセットで登場しますよね。
あれはやはりカンフーがそういうものだからです。
最終的には、功夫は独りで練り上げるものですが、始めのうちは必ず指導者のもとで学びます。
中国では、老師は学生を子どものように慈しんでくれます。
学生は、老師を親代わりと考えます。
そんなふうに聞くと、単に上下関係をわからせるために親子を持ち出していると感じますか?
ちがいますよ。
老師はえらくしていたいから、自分を親だと思えと言うのではありません。
中国の老師は、学生の食べ物も気にしてくれます。
着る服も、充分か気にしてくれます。
お金だって、この子はちゃんと足りてるかと気にかけてくれます。
「え?教える側はお金をとるだけでしょう?!」という声が聞こえそうですね。
専門学校のようなところのコーチは違うかもしれませんが、個人の老師は、真摯にまなぶ学生のために、お金を出してくれることがよくあります。
食事を、老師が食べさせてくれるのも普通です。
ほんとうに親みたいなんです。
課する練習は厳しいでしょうが、人としてはとても近くて、あたたかくて、その中にじんわりと尊敬の心が芽生えていきます。
こんなに温かくて、すてきな人間関係を得られるかもしれないなら、どこかにそんな先生がいないか探したくなりませんか?
師匠と弟子のワンセットは、カンフーの定番です。
そこに人間ドラマがあります。
古い文献を探して調べたり、達人をたずねて出かけて行ったり、そういう探求はカンフーの魅力。
自分の「老師」を探すこともすてきな探求のひとつ。
それは宝探しそのもの。
その出会いのチャンスを失うから、独学なんてもったいないことです。
おわりに
カンフーは伝統の文化です。
套路であれ、実戦系のものであれ、全て人から人へ、脈々と受け継がれてきました。
打ったり蹴ったりの動きだけを受け取ることは、カンフーを受け取ったことになりません。
技と共に、人が人を大切にしてきたという、温かい心も受け取らなければなりません。
師や仲間と共に歩く時間の中で、それはおのずと受け取れるでしょう。
そうして得た、この技と心を、ほかの誰かのために活かし、次の誰かのために伝えることが大切であり、その手腕こそがカンフーです。
手腕の顕れ方は、戦闘技術の枠におさまりません。
重い荷物を背負った人に、きたえた力強い手をさしのべられるなら、その一手が確かな功夫です。
「以武会友」という言葉があります。
武術を通じて友を得るという意味※です。
痛くて苦しいのは練習だけで十分。
カンフーの理想は誰かを倒すどころか、「友愛」にあります。
もしこの事を知らないとしたら、長く苦しい道のりを、あなたがたった独りでまっすぐ歩けるか、とても心配です。
だから、カンフーの独学はいけません。
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補足
※以武会友の補足
武術を習得するのは、ひとりでは難しく、いろいろな人を訪ね歩いて、理論を語り合ったり、実技を示し合ったりするのが当たり前でした。
手合わせをしても、それは互いを傷つけたり、勝ちに君臨することが目的ではありません。
あくまで武術の研究、上達のためです。それをくりかえすとやがて交流は広くなり、良い友人、敬愛できる師を見つけます。その大切な人間関係のなかで、自分たちは世の中に対して何ができるか、理想を共有し、助け合い、互いを思いあう精神が育まれていきます。
この状態を以武会友といいます。
執筆者 石川 まな (カンフーチーム 点睛会 代表)